刑事人権論のご専門の立場からの重要なご指摘とご教示に感謝申し上げます。
学ばされることの多いご指摘とご教示でした。
「一事不再理」(二重の危険の禁止)に関するいわゆる「外国判決条項」(他国の有罪または無罪判決にも自国の裁判において「一事不再理」を適用するという規定)は、国際人権法や国際刑法の【現行法解釈においていまだ国際慣習法としては確立していない】ことはよく理解できました。この点についての前田さんのご説明は条理が尽くされており、私のような浅学菲才な者にとっても十分に納得できるものでした。
この点に関して、私は、自分の認識の瑕疵を明確に認めます。
したがって、前便(18475)の「日本の『一事不再理』の原則は米国では適用されないという米捜査当局の見解は二重、三重に誤っています」の一文(センテンス)は、国際人権法や国際刑法の当該規定について「外国判決条項」の有無を想定していなかった私の認識の瑕疵(甘さ)を含みますので一端取り消させていただきます。
上記の私の認識の瑕疵を認めた上で、前田さんのご指摘、ご認識には、私としていくつかの留保、あるいはオブジェクションがあります。
第1。それは、国際法の「人権」規定の本質をどう捉えるか、という私たちの認識の根幹に関わる問題です。16世紀以降の近代国家、近代社会の成立以来、「人権」が人間固有の権利(生まれながらにして持っている権利)、すなわち国家権力といえども介入できない天賦の人権(自然権=前国家的権利)、また、世界の人びとに共通する普遍的権利として国際的に広く認知されてきたことは周知のところであり、それゆえに1948年の第3回国際連合総会で採択された世界人権宣言の前文にも「これらの権利と自由」は「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として明文化されることになったのです。
ところで、くだんの国際人権規約(自由権)は、上記の世界人権宣言の内容を基礎として条約化されたものといわれており、その14条7項には「何人も、それぞれの国の法律及び刑事手続に従って既に確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない」と規定されています。
だとすれば、同14条7項も「すべての人民とすべての国とが達成すべき【共通の基準】」としての規定であると考えるのが世界人権宣言に添った本来的な解釈というべきであり、その規定が「すべての人民とすべての国の【共通の基準】」である以上、同14条7項は本来的には他国であれ自国であれ、「外国判決条項」があろうとなかろうと、「確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない」と解す
るべきものであろう、と私は思慮します。
前田さんが重要だとして引用する欧州人権条約第七議定書4条1項の規定「何人も、その国の法律および刑事手続きに基づいて既に確定的に無罪又は有罪の判決を受けた行為について、【同一国の管轄下での刑事訴訟手続きにおいて、再び裁判され又は処罰されることはない】」は、国際条約がいまだ「人権」よりも「国家主権」を優位に置く国家間の「パワー・ポリティックス」ストラクチャーを反映した解釈に過ぎないもので、それが現行国際法の主流の解釈となっている以上、私たちとして「権力にたて突くことはできない」という意味で容認せざるをえないが、擁護に値する解釈ではないように私は思います。同じく前田さんが引用する「二重の危険」(ヒース対アラバマ事件)に関しての米連邦最高裁の解釈もしかりです。
また、これも前田さんが引用する『司法運営における人権――判事、検事、弁護士のための人権マニュアル』(国連、2003年)の「二重の危険」に関する記述「同一犯罪について二度裁かれない権利は、ひとつの同一国における最低基準として、国際法によって保障されている」は、よく読むと必ずしも「二重の危険の禁止の国内原則」を記したものではありません。同人権マニュアルには「二重の危険の禁止」は「ひとつの同一国における【最低基準】」と書かれています。「最低基準」とはどういう意味でしょう? 私には「外国判決条項」はなくてもかまわないとする「二重の危険の禁止」の現行解釈は「最低基準」としてのもので「外国判決条項」は本来は導入するべきものだ、と書いているように読めるのですが・・・
上記に少し見たように前田さんの現行国際法の解釈は、なにゆえの「人権」規定か、という視点に乏しく、やや現状追認的に過ぎるのではないかと私は思います。
第2。なにゆえの「人権」規定か、という視点をどこかに忘失して、もっぱら国際人権法や国際刑法の【現行法解釈】に依存する前田さんの「二重の危険」解釈は「ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)」ブログの2008年2月28日付記事の評価にも及んでいます。私が18483で引用している同記事を、前田さんは「およそ問題外」「お話になりません」「二重の危険の禁止が及ばないことと、被疑者の引渡しとは別問題です」(18508)と一蹴します。ヤメ蚊さん(も、
法律家です)は上記記事で「二重の危険」について述べていると私は思うのですが、それを前田さんは「被疑者の引渡し」の誤例証であるとし、「爆弾事件の犠牲者10人の国籍が違うのなら、それぞれの国に行かなければいいだけのことです」と言います。しかし、ヤメ蚊さんは、ある国の裁判で「無罪」が確定した人が「嫌がらせのように各国(この例の場合は10か国)の裁判所で繰り返し裁」かれるのは「あまりにおかしいだろう」と言っているのです。「被疑者の引渡し」の話ではありません。
前田さん。第一、「それぞれの国に行かなければいいだけのことです」とはどういうことでしょう? 「海外渡航の自由」は日本国憲法第22条にも、国際人権規約(自由権)第12条2項にも定められている各国国民の基本的権利です。この例の場合、「無罪」が確定しているわけですから、もちろん旅券法にも違反しません。出国・帰国の自由の保障は各国家に課せられている義務でもあります。「それぞれの国に行かなければいい」というのは、
「無罪」が確定している者が「ある国へ行きたくても行けない」状況を容認し、「無罪」が確定している者の「海外渡航の自由」を侵害する発言ということにならざるをえません。前田さんは一度「容疑者」になった者は「無罪」が確定しても、「海外渡航の自由」を制限されてもやむをえないとでもお考えでしょうか? そうではないでしょう。
また、国際刑事裁判所規程20条の規定は「いかなる人も、【本裁判所によって】すでに有罪とされまたは無罪とされた第五条に定める犯罪について、他の裁判所において審判を受けないものとする」というもので、同条文の効力は「本裁判所」の審判にのみ及ぶ。それを「一事不再理は国際的に承認されている」などと《吹聴》するのは誤解も甚だしい。「お話になりません」というご指摘のようですが、そうでしょうか?
「本裁判所」とは国際刑事裁判所のことにほかなりませんが、私の以前のメール(18483)でも指摘していることですが、国際刑事裁判所規程は139か国の署名と発効に必要な60か国以上の批准を受けて発効しているものです。国際刑事裁判所の判決の効力は同規程に署名している締結国139か国を拘束します。そのことを「善し」として各締結国はそれぞれ署名しているわけですから、同裁判所規程20条の「いかなる人も、本裁判所によってすでに有罪とされまたは無罪とされた第五条に定める犯罪について、他の裁判所において審判を受けないものとする」という一事不再理の規定は「国際的に承認されている」(ヤメ蚊さん)と《吹聴》しても一向に差し支えないのではないでしょうか? 少なくとも私はそう思います。
私及びヤメ蚊さん(弁護士)は、人間の尊厳と人権の「孤塁」(治安維持法時代の労農党(共産党)員、山本宣治の言葉、「山宣独り孤塁を守る」より)を守ろうとして、「どう考えても一事不再理に反するように思う」(ヤメ蚊さん)今度の米警察当局の三浦和義氏「不当逮捕」を問題視し、真摯に警鐘を鳴らしているのです。前田さん。「お話になりません」というのは、私及びヤメ蚊さん(弁護士)の指摘に仮に誤りが含まれていたとしても、ずい
ぶん私及びヤメ蚊さんを愚弄する発言ということになりませんか。
第3。前田さんの先のメール(18507)のご趣旨はどういうものでしょう?アメリカ憲法及び現行のカリフォルニア州法には「外国判決条項」がないので、三浦氏の「無罪」判決はすでにわが邦において確定していることを持って日本が米当局に「一事不再理」を主張するのは失当である、とのご見解でしょうか? もし、そのようにお考えならば、私はそのような見解には与することはできません。
米国及びカリフォルニア州には、それぞれ国家主権、州主権に基づく刑事裁判権、つまり日本で「無罪」判決が確定している三浦氏を裁判にかける権利がある(カリフォルニア州には04年州法改正にともなう「遡及処罰の禁止」という別の法律上の論点が生じますが)というのは、この点については前田さんに教えられましたが、「外国判決条項」の規定がない、という米国サイドの【現行】憲法・法解釈の限りにおいてはそのとおりだと思いますが、いうまでもなくわが邦にはわが邦の主権があります。私たちの邦の裁判で三浦氏の「無罪」判決が確定している以上、私たちの国として米国に対して「一事不再理」を主張することは、当事国それぞれの「自決の原則」「主権平等」を尊重するという国連憲章の立場、日本側の主権の行使としての「邦人保護」の観点から見ても当然の権利、というよりも進んで行使しなけばならない権利、であろうと私は思います。
また、このことはすでに述べましたが、国際人権規約(自由権)の14条7項は、「本来的には他国であれ自国であれ、『外国判決条項』があろうとなかろうと、『確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない』と解するべきもの」であって、そういう観点からも、私たちの邦は、米国に対して「一事不再理」を積極的に主張するべきであろう、とも私は思います。
さらに、わが国のいわゆる「ロス疑惑裁判」で三浦和義氏の弁護人を務めていた弘中惇一郎弁護士の「三浦元社長の元妻が殺害された事件の捜査は日米両国で協力して進められた」「日米で協議して日本で(裁判を)やると決めた。米国から(日本側に)資料が提供されたり、警察官や関係者が日本の法廷にきて証言したりというプロセスを経ている」という指摘(朝日新聞、2008年02月26日付)も重要です。
http://www.asahi.com/special/080224/TKY200802250491.html
弘中弁護士も指摘するとおり、上記のようなプロセスを経て出た「無罪という(日本の)裁判所の最終的な結論を米国も尊重するべき」です。
米当局の三浦氏の「拘束」「逮捕」「起訴」は、どう見ても不当だと私は思っています。
第4。その他の前田さんのご指摘に即して。
> 刑事裁判における二重の危険の禁止は、もともとアメリカ憲法上の権利等として形成
> されてきました。修正第5条です。これは「アメリカ憲法上の権利」ですから、アメリカ国
> 内にしか適用されません。日本の刑事裁判権とアメリカの刑事裁判権は別です。
そういうことを知った上での私及びヤメ蚊さんの問題提起でした。日本の刑事裁判権と
アメリカの刑事裁判権を混同しているつもりはまったくありません。
> 日本国憲法39条も二重の危険の禁止です。「日本国憲法上の権利」ですから、日本
> 国内にしか適用されません。
そういうこともわかった上での問題提起です。
第5。以上の理由により、下記に再掲する前回の私のメール(18475)の指摘を取り消す必要性を私は感じません。
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第1。米国憲法修正5条にも「何人も同一の犯罪について、再度生命身体の危険に臨まされることはない」という規定があること(米国法では《DOUBLE
JEOPARDY》(二重の危険)の法理というようです)。
第2。国際人権規約(自由権)の14条7項にも「何人も、それぞれの国の法律及び刑事手続に従って既に確定的に有罪又は無罪の判決を受けた行為について再び裁判され又は処罰されることはない」と明記されていること。
第3。国際刑事裁判所規程20条にも「いかなる人も、本裁判所によってすでに有罪とされまたは無罪とされた第5条に定める犯罪について、他の裁判所において審判を受けないものとする」と明記されており、「一事不再理」の原則は国際的に承認されている国際的なルールであること。
第4。三浦和義氏が逮捕された地であるカリフォルニア州の04年改正前の州法でも「米国内の他州や他国で有罪または無罪判決を受けた場合は」訴追できないことが明確に定められていたこと(02年にロサンゼルス郡保安官が殺害されてメキシコ人容疑者がメキシコに逃亡する事件が起きたことから、法改正の機運が高まり、04年9月に改正法が成立。条文から「他国」が削られたといいます。「改正」後のカリフォルニア州法は「一事不再理」の原則を定めた国際的ルールを明らかに逸脱しています)。
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第6。最後に。私は依然として、この国の裁判で「無罪」が確定している者をメディアという「公共」媒体を使って容疑者(疑わしい者)呼ばわりしてまったく恥じ入ることのないわが国のマスメディアの行為(その無知、無能、人権感覚の欠如、犯罪性)は決して許されることではないだろう、と激しく思っています。
また、「外国判決条項」の有無に関わらず、今回の米当局の三浦氏の「拘束」「逮捕」「起訴」は、
日本国憲法違反であり、
アメリカ合衆国憲法及びカリフォルニア州法違反であり、
国際法違反である、
と私は激しく思っています。
東本高志
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前田さんの主張は、「二重の危険」という人権を憲法から規定するという出発点の誤りがあるのではないでしょうか。憲法は変わります。とすれば、人権もその都度変わるということになります。そうした問題を検討した文章をブログにあげましたので、よろしければ読んでください。
http://blogs.yahoo.co.jp/felis_silvestris_catus/54130514.html