2014年11月25日

佐藤振壽――「写真を撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」Re: 「虐殺されたはずの南京市民」

-------- Original Message --------
Subject: [CML 035145] 佐藤振壽――「写真を撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」Re: 「虐殺されたはずの南京市民」
Date: Tue, 25 Nov 2014 13:17:25 +0900

檜原転石です。

大畑さん、こんちは。

「ウソも100回言えば、真実になる」というわけで、メディア(ミーディア)の洗脳でほとんどの日本人は馬鹿な右翼になってしまいました。

以下、本多勝一『南京大虐殺と日本の現在』(金曜日、20007年)参照――


笠原十九司によれば、いわゆる「南京大虐殺論争」は学問的には1990年代の半ばの時点で「決着」がついています。
唯一残された論争は、犠牲者総数問題だが、それは資料的制約からもともと決着のつく問題ではない。

「決着」がついた結果、中学・高校の教科書に約20万人という犠牲者数が多くの教科書に記述された。中国側のいう犠牲者30万人も紹介され、記述は以前より改善。

ところが、書店では趨勢が逆転!南京大虐殺否定本が南京事件事実本を圧倒!

1990年初頭では、文春・産経・新潮社という札付き右翼出版社が中心だったが、あらたに
小学館・草思社・幻冬舎・PHPなども加わり大嘘書き放題。
こうしてほとんどの日本人が馬鹿な右翼になってしまった。

さて紹介の動画にも名前が出てきますが、カメラマン佐藤振壽といえば、「百人斬り競争」訴訟でも出てくる名前です。
まあ当たり前のことだけど、写真でウソを広めるいろんな方法があるけど、1つの方法として
歴史修正主義者にとって都合の良い写真だけを見せ、都合の悪い写真は見せない。
そうすれば、どんな事件でも無かったことにするができる。

▼ How Nanjin Massacre has been written in History textbook? 南京大虐殺は教科書にどう書かれてきたか 教科書に「南京大虐殺」はどう書かれてきたか
俵義文
http://www.jca.apc.org/nmnankin/tawara1.html

▼ Thirteen Lies : 否定論13のウソ 「南京大虐殺はなかった」という人へ
−「否定派のウソ」と「事実」−
大谷 猛夫
http://www.jca.apc.org/nmnankin/ohtani1.html

否定派のウソ 13
 「南京大虐殺の写真はニセモノばかりである」

「事実」 日本の軍隊に従軍して写真をとっていた従軍カメラマンはたくさんいた。南京戦では200名をこす新聞記者やカメラマンがいた。しか し、撮影も報道もしていない。厳しい陸軍の検閲があったからである。「左に列挙するものは掲載を許可せず」といい、・・・我が軍に不利なる記事写 真・・・というのである。これでは「我が軍に有利な写真しか」載らない。南京安全委員のマッカラムは日記に書いている。「1938年1月8日、難 民キャンプの入口に新聞記者がやってきて、ケーキ・りんごを配り、わずかな硬貨を手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、か なりの数の兵士が裏の塀をよじのぼり、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。」
しかし、平站自動車第17中隊の写真班の村瀬守保氏は輸送部隊であったために比較的自由に写真を撮り、検閲もうけなかった。戦後「一兵士が写した 戦場の記録」という写真集をだしている。この中には南京大虐殺現場の生々しい写真が何枚か収録されている。「虐殺された後、薪を積んで油をかけら れて焼かれた死体。ほとんどが民間人でした」のキャプションがついたものがある。 

▼上海・南京 見た 撮った

 従軍とは歩くこと
 
  佐藤 振壽(元毎日新聞記者)
http://www.tok2.com/home/johnvoid/satou.html

一夜が明けると12月14日の朝だ。筆者が昨夜寝ていた建物は、中山門内の中国軍将校の社交機関・励志社である。
 (中略)
 そんな時、連絡員の1人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせてきた。何事がよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出 かけた。
行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。
 中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には5メ‐トル平方、深 さ3メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。
 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまザかせて、後頭郡に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業で もやっているように、回転して穴の底へ死体となって落ちていった。
 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エ イッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。たまたま穴の方へ歩かせられていた 一人の中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた目本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れてい ない後方からの射撃だったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。
 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世昇にいるようだ。戦場で敵を殺すの は、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人間を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めな いと、殺せないのだろう。
 後で仲間にこの時のことを話すと、カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったかと反問された。「写真を撮っていたら、おそらくこっちも殺さ れていたよ」と答えることしかできなかった。
 このような事件を見たのは筆者だけではなかったようだ。東京から第百一師固に従軍するだめ、大阪から同じ軍用船で上梅へ渡った記者伸間に「東 京朝日」の足立和雄君がいた。
 阿羅借一著『聞ぎ書・南東事件』(図書出版社刊)の中に足立記者との次のような問答が記されている。
−南京で大虐殺があったといわれていますが、どんなことをご覧になっていますか。
「犠牲者が全然なかったとは言えない。南京へ入った翌日だったから、十四日だと思うが、日本の軍隊が数十人の中国兵を射っているの見た。塹壕を 掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが、難民区内ではなかった。」
 筆者が見た場所と足立記者が見た場所は、同じ場所ではないようだ。しかし、同じ十四日の出来事であった。

 さて筆者が目撃した場所はどこであったのか、大きな門の写真を撮ったが、その門の上には「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営 門の両側の哨舎のうち、右の構舎には「伊佐部隊・棚橋部隊」、左の哨舎には歩哨の陰になっているが棚○○、捕虜収容所、占獲集積所」という文字が 読める。「駐軍八十八師司令郡」の白いレリーフの文字は黒色に塗られていた。その下には横長に「青天白日」のデザインがレリーフになっている。八 十八師といえば、中国軍の中でも蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。
 ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている「伊佐部隊・棚橋部隊」とは、上海で勇戦し感状を受けた第九師団歩兵第七連隊第三大隊の通称で ある。

「従軍とは歩くこと」 南京戦史資料集II p610〜P612


▼阿羅健一著「『南京事件』日本人48人の証言」批判 (以下阿羅本と略す)
http://www.nextftp.com/tarari/nihonjin48-1.htm

▼佐藤振壽『従軍とは歩くこと』
http://www.geocities.jp/yu77799/satou.html

▼ 住吉・今井 九条の会 たかつ九条の会 資料(事実だった南京「百人斬り競争」) 事実だった南京「百人斬り競争」

      ―― 「百人斬り」訴訟とその背景
http://homepage2.nifty.com/sumiyoshi-9jo/newpage60.htm



(2014/11/25 10:19), ohata wrote:
> 大畑です。
>
> こんな映像がFB経由でまわってきました。
> 詳しいかたにコメントいただければ幸甚です。
>
>
> 虐殺されたはずの南京市民
> http://japan-plus.net/238/
> 「南京大虐殺」が中共政府の捏造した宣伝に過ぎなかったことをこのビデオは明確に証明している。このビデオのみならず、南京に虐殺など無かったことを証明した数々の証言や当時の記録がある。(東京裁判ではその殆どが却下された。)
>

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以上、転載

太田光征
posted by 風の人 at 14:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 一般
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