それ[公正に基づかない平和]は偉そうに、[権利を侵害されて]怒っている者たちに対し、公正の問題について議論できるようになるには、自分たちの怒りを呑み込んで騒ぎを起こすなと要求する。
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Subject: [uniting-peace:1442] Fw:【ガザ】公正がなければ平和もない
Date: Fri, 22 Aug 2014 06:42:35 +0900 (JST)
永岡です、京都大の岡真理さんによるガザ情勢をお送りいたします。
<以下、転送>
■拡散歓迎■
京都の岡真理です。
アメリカ、ミズーリ州のファーガソンで、黒人の青年が白人の警官に撃ち殺された事件で、黒人住民の怒りの抗議行動が燃え盛り、州警察が鎮圧にあたりました。
レイシズムによる殺人は、イスラエル占領下の東エルサレムや西岸の日常です。
また、今、イスラエル占領下の西岸でも、イスラエル領内でも、パレスチナ人住民によるガザ攻撃に対する平和的な抗議デモが、占領軍による過酷な弾圧を受けています。
ファーガソンのニュースを見ていると、パレスチナが突如、アメリカに現出したような感があります(民衆に対して使用される催涙ガスは、イスラエル軍がパレスチナ人に対して使用しているのと同じものです)。それは偶然や「他人の空似」ではなく、アメリカも、パレスチナも、(そして日本も)同じ世界システムの中にいることの証左なのでしょう。
アメリカの国家システムが、レイシズムに基づくガザのジェノサイドを、そしてパレスチナの漸進的ジェノサイドを支持するならば、それは内においてもそうなのだということ。辺野古の基地建設を進める日本政府が、イスラエルと包括的パートナーシップを進めるのと同様です。
大阪出身の代議士、西村眞悟氏の「普天間基地反対を叫ぶ者の背後にはガザ地区のテロリストと同じ冷酷非情の論理がある」という主張は、このことを例証しています。
http://palestine-heiwa.org/choice/g-list.html
↑パレスチナ情報センターにアップされている日本のイスラエル支援議員のリストです。ぜひ、ご覧ください。日本の軍事化を積極的に推進する政治家たちが同時に、積極的なイスラエル支援議員であることが分かります。
ファーガスンの住民たち、ガザのパレスチナ人、辺野古の基地建設に反対する沖縄の人々、自分たちの土地で平和に暮らしたいと願う者たちがあげる抗議、正当な怒りは、この世界システムのなかでは、軍事力を行使して排除されるべき「テロリズム」とされ、それに対する暴力の行使が正当化されるのだということ。
以下、シリーン・タウィールの「公正なきところに平和はない」をご紹介します。シリーン・タウィールはミラノ在住の、メンタルヘルスとリプロダクティヴヘルスの専門家です。
タウィールの文章を読んで、「不正はどこにおける不正であろうと、あらゆるところの公正に対する脅威となる」(Injustice anywhere is a threat to just everywhere)というキング牧師の言葉を思い出しました。これに倣って言えば、ヒューマニティと人間の尊厳の毀損は、それがどこの誰におけることであっても、私/たち自身のヒューマニティと尊厳の毀損なのであり、それに対する怒りの声をあげることは、私/たち自身が人間であり続けるために必要なことなのだと思いました。
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http://mondoweiss.net/2014/08/justice-peace-ferguson.html
公正なきところに平和はない――ガザ、あるいはファーガソン
シリーン・タウィール
Mondoweiss / 2014年8月20日
ファーガソンの路上でマイケル・ブラウンが殺害されたことに抗議するアメリカ人の群衆に応答して、ミズーリ州知事ジェイ・ニクソンは最近、次のように述べた。「私たちがジャスティス/公正を望むなら、まず私たちは平和でなければならない、平和を維持しなければならない。これは試金石だ」。同じフレーズを口にしている他の多くの指導者たち同様、ニクソンは、公正に基礎をおかない平和が真の平和ではない、ということを理解していない。そんな平和は、単に、無邪気な指導者たちが、正当な怒りを抑え鎮圧し、抑圧されている人々をなだめて自己満足させるために広めている欺瞞であって、ジャスティス/公正を求めている者たちの選択肢ではない。
公正である以前に平和を呼びかけることは、権利を奪われ、抑圧されている者たちが突きつける要求に取り組むことを先延ばしにするために、権力者たちが用いる使い古されたテクニックだ。それは、自由と、イスラエルによる植民地化の終結を求めるパレスチナ人の要求の実現を遅延させるためにイスラエルが何十年にもわたり用いているものだ。1993年のオスロ合意は、ジャスティス/公正なき「平和」を実行した――帰還権やエルサレムの地位や恒久的国境といった「ハード」な問題の解決を5年間延期することによって。今日、オスロ合意から21年がたって、パレスチナ人の権利はますます侵害され、彼らの盗まれた土地はかつてないほどの高い数字に達している。[オスロ合意で]パレスチナ人の要求に取り組むとイスラエルが言明したもののすべてに対立する行動である。
ニクソンの言葉はまた、次のような問いを喚起する。「彼は何を試しているのか?アメリカの黒人が尊重してもらえるにふさわしくふるまえるかどうか、だろうか?外出禁止令のあいだ家に留まると言う指示に従うことができるかどうか、そして、それによって彼らが、人間として、[彼らが要求する]諸権利に値するかどうかをテストする、ということだろうか?彼らが「良き」市民でありえ、自分たちの怒りを声にするのをやめることができなら、警察は、やたらと引き金を引くという問題に取り組んでくれるかもしれない、ということだろうか?
これらのすべてのシナリオの問題は(吐き気を催すほど人を見下しているということは別に措くとして)、彼らが、権利の実現の基礎を「良き」振る舞い――と権力者たちが判断する振る舞い――においているということだ。これは、イスラエルがパレスチナ人に対して頻繁に用いる方策だ。最も直近では、イスラエルとエジプトがガザのパレスチナ人に対して課している7年に及ぶ封鎖を解除するという交渉において、用いられている。イスラエルは、パレスチナ側が求める国境の開放、ガザ経済の再建、囚人の解放について議論を始める前に、まず「静穏」であること、自分たちの安全保障のニーズが満たされなければならないと主張する。
ジャスティス/公正であることに、良きふるまいを附随させるのは、危険なことだ。このような条件づけは、「権利」というものを、人間がただ人間であるという理由によってあらゆる者に認められている一連の条件であるはずのものから、報償として授けられ、与えられる一連の条件にしてしまう。権利は議論可能なもの――悪いふるまいをすれば取り上げられる特権――に、条件つきのものとなる。ジャスティス/公正に基づかない平和は、譲歩の結果の平静であり、権利は依然、侵害され続け、人々は相変わらず人間扱いされない。それ[公正に基づかない平和]は偉そうに、[権利を侵害されて]怒っている者たちに対し、公正の問題について議論できるようになるには、自分たちの怒りを呑み込んで騒ぎを起こすなと要求する。ジョン・オリバーが喝破したように、ファーガソンの住民に対するニクソン州知事の呼びかけは、「議会で静粛さを回復しようといらつく副議長」の残滓だ。
しかし、ファーガソンの通りで抗議する人々は、冬休みに宿題が出たことに怒っている高校生ではない。彼らは、黒人の肉体が、過剰に軍事化された警察組織によって不用意に撃ち殺されること、彼らの命が、他の者たちの命より軽いものと見なされ、疑われ、暴力的に扱われることに怒っている人々である。ガザにおける成層圏の殺人と破壊に対する怒りから、ミズーリ州におけるマイケル・ブラウンの殺害とそれが表しているあらゆることに対する怒りまで、社会はこれら怒れる者たちに「冷静にしろ」「静まれ」と反応する。答えはNOだ。
アパルトヘイト体制がずっと敷かれるなか、ある国が他に対して組織的にジェノサイド戦争を仕掛け、占領下の人々の民族浄化をおこない、それがまったく処罰されないような世界に私たちが生きているとき、怒ることこそふさわしい。
ただフード付きジャケットを着ていただけで人が誤って殺されるとき、怒ることこそふさわしい。
子どもたちが何百人も虐殺されるとき――眠っているあいだに殺された者もいれば、浜辺でサッカーをしていて殺された者、電気がないために亡くなった者もいる、かけがえのない人生において自由の日を知ることもなく――、怒ることこそがふさわしい。
武器をもたない10代の少年が6発も――「6発」もだ――撃たれ、8月の焼けつくような日差しのもと放置され、腐乱するにまかせられているとき、怒ることこそがふさわしい。
日和見主義で暴力的な技術屋が、プレーヤーがガザの爆撃をシミュレートするようなグーグルのアプリ・ゲームを開発するとき、怒ることこそがふさわしい。
パレスチナ人とアメリカ黒人が(その他多くの、多くの、権利を奪われた人々のなかでもとくに)、世界に対して自分たちのヒューマニティ/自分たちが同じ人間であることと、自分たちが、尊厳と平等と尊重されるべき価値に値する存在だということを信じてもらうために連綿と努力しなければならないとき、これらの制度的抑圧と、彼らを人間として扱わない諸体制に対して怒ることこそがふさわしい。
実際、怒ることは健康に良い――それは、自分が人間であること、そして自分のヒューマニティを自覚していることを示すからだ。自分が自分の価値を自覚していることを示すからだ。他の者たちと一団となって、自分の声をあげるという行為は、帰属感と前向きな精神的健康を高め、自己の価値についての理解を強化する。自己の価値についての知は、人が日常的に人間扱いされていない中で、最大の重要性をもっている。ヒューマニティ/人間であることの集団的、全人的な見解においては、制度が個人レベル、共同体レベルで人々を尊重できないでいることを理解することが決定的に重要である。喉の痛みが、あなたの健康がどこか問題があることを示す肉体の徴候であるように、かくも怒り、抗議している集団は、私たちの世界がどこか間違っているというサインを送っているのである。
抗議と、怒りを声に出すことは、日常的に人間扱いされないことや言葉による虐待など可視的な暴力に対する可視的な反応である。とはいえ、もっとも権利を奪われている集団の苦しみはなかなか可視化されないのだが。この怒りを抑圧することは、ヒューマニティ/自分たちもまた同じ人間であること、自分たちも[人間として]価値があることの訴えを抑圧することである。このように無慈悲に人間扱いされず、人間としての生活を一顧だにされないでいて怒りを感じないというのは、自分自身のヒューマニティの感覚を失うことだ。ジャスティス/公正なき平和という既成事実を受け入れることは、自分の生活にはそれだけの価値がないという現実を受け入れるということだ。ジャスティス/公正を求める私たちは知っている、権力者は決して、被抑圧者に権利を喜んで差し出したりはしないことを。
権利とは、不断の闘いを通して、平等に、尊厳と自由に値する人間として扱われるのだという揺るぎない決意を通して、勝ち取らなければならいものなのだ。往年のプロテストソングが歌うように――ジャスティスがなければ平和もない。
[翻訳:岡 真理]
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以上、転載
太田光征
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