2013年07月19日

沖縄とヤマトの溝をどう埋めるか(新崎盛暉)

労働情報867号より

沖縄とヤマトの溝をどう埋めるか
新崎盛暉(元・沖縄大学学長/沖縄平和市民連絡会代表世話人)

 私が最初に書いた著書は、『沖縄問題二十年』(中野好夫と共著岩波新書 1965年6月)である。
おそらく日本で最初の沖縄戦後史だろう。
この本が出た直 後ぐらいから、ベトナム戦争の際限なき拡大が始まり、沖縄の反基地闘争も盛り 上がって、日米両政府も「沖縄返還」に向かって動き出す。
そんな状況を伝え るために、前著の続編として、『沖縄・70年前後』を書いた。
「70年前後」と銘打っているが、70年8月に出 されているから、65年から、70年1月ぐらいまでの 民衆闘争の記録である。
その中に次のような記述がある。

「佐藤訪米抗議・反対・阻止のための全国的な統一行動が行われた(1969 年)11月13日の前日、沖縄中部具志川市の前原高校では、生徒約150人が佐藤訪米阻止、学園民主化を叫んで校庭に座り込み、ハンストに入った。」
ここまでは、当時、全国紙にも小さく報道されている。

 私は次のように記述を続けている。
「なぜ150人もの生徒が佐藤訪米阻止を叫んでハンストに突入したのか。
もちろんハンストによって物理的に佐藤訪米阻止ができると考えたからではない。
それは、国家権力に対する拒絶の意志を、学 園民主化要求と結び付けて行動化したと理解すべきであろう。」

 それから45年近くになる。
私は、去年、69年の前原高校のハンストのリーダーが、当時高校2年の生徒会長山城博治であることを知った。
高江のオスプレイ パット建設反対闘争の現場や、普天間基地のゲートで、「国家権力に対する拒絶 の意思」を示す非暴力実力闘争の牽引車としての役 割を担っている、あの山城博治である。
沖縄は、いまだに闘い続けているのである。

 参院選が始まっている。
だが、アベノミクスの幻想に酔わされた社会的雰囲気の中で、戦後日本の核心的現場ともいうべき沖縄の問題は、選挙の 争点にさえ なっていない。
自民党は、沖縄の総意を無視して、選挙公約に公然と、普天間基 地の辺野古移設を明記した。
さらに自民党本部は、自民 党沖縄県連の「県外移設」という主張を地域版公約として認めない、という態度をとっている。

 選挙結果いかんによっては、安倍政権は、対米従属的アジア排外主義の性格をより明確にし、強権的性格をより強めてくるだろう。
外交・安全保障・エネル ギー政策等は、国家(中央政府)の専権事項であるとして、地方自治・地域自治 を踏みにじってくるだろう。
その最初のターゲットは沖縄である。

 そうした事態を生じさせないための阻止線をどこに張るのか。
反転攻勢の布石 をどこに打つのか。
沖縄の問題を自らの問題と捉えるヤマトの少数派の結集軸はどこか。
そのことをぜひとも考えてもらいたいと思う。
posted by 風の人 at 23:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 一般
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